【歴メシを愉しむ(167)】土用丑の日に想う タレを愛する日本人

カテゴリー:食情報 投稿日:2025.07.19

7月19日は夏の土用の入り。本年は「入りの日」=「丑の日」となる。さらに今年の丑の日は2回あり、「二の丑」は7月31日。高価な鰻だが、暑気払いの大事な風習ゆえ、2回あるなら、2回食べずばなるまい。まるで義務感のように聞こえるが、要するに鰻が大好きだから、何度でも食べたいのだ。

 

時代劇で知ったタレの大切さ

なぜこうも鰻の蒲焼きは、美味で、我々の食べたい欲を刺激するのか? 思うにそれは、タレの力が大きい。もちろん鰻そのものも美味いが、このタレが無かったら、ここまでその香りに誘惑されることもないだろう。

子ども時代は祖父や父の影響で、大人になってからは、昔の日本、特に戦国~江戸時代の食や、それにまつわる行事・風習、人々の食生活等々を勉強するために、TVの時代劇をよく観るようになって数十年、いつの間にか大の時代劇好きとなってしまった。

興味深いシーンは多々あり、その中の一つに、火事が多かった江戸の町で、家屋から焼き出された町民たちが焼け跡に集まって、互いの無事を喜んだり、今後のことを嘆いたりしている場面がある。時にその集まりの中に、蓋つきの茶色い甕(かめ)を大切そうに抱えた鰻屋の主人がいる。そのシーンの彼の台詞はたいがいこうだ。「命からがら、なんとかタレだけは持ち出せたんだけど、他はみんな焼けちまった。これからどうしたらいいのか途方に暮れちまう…」。おチビの頃やまだ学生時代の私は、「え~っ?!そんなタレなんかより、もっと大事なもんを持って出たらええのに…」と思っていた。

昔から、タレは鰻屋の命ともいうべき大切なものとされ、タレの年輪で店の格が決まるとまでいわれたという。

 

魅惑的なタレの正体

「垂汁」と書いて「タレ」は、味噌や醤油の原型である「未醤の垂れた汁」から始まった言葉とか。

鰻屋の前を通ると激しく食欲をそそられるあの香りの正体は、火に炙られた鰻の脂と身、そしてタレとが三位一体絡み合って焦げたもの。鰻だけでもいい香りはするが、ここへタレが絡むことによって、魅惑的な芳しき香りとなるのだ。

このタレの中身はというと、醤油、みりんを合わせたものに、さっと焼き焦がした鰻の頭や中骨を入れて加熱したもの。ここへ日本酒や水あめなどを入れる場合もある。

 

上方から江戸へ伝わった開き焼き

江戸時代初期、鰻は、丸のまま縦に串を打って焼き、溜り醤油や山椒味噌をつけて辻売りで売られていた。その形が蒲(がま)の穂に似ていたので蒲焼きと呼ばれたという説が有力である。この頃の鰻蒲焼きは、重労働をする人々に好まれ、上品な食べものではなかったという。

蒲焼きが普及し始めるのは元禄年間(1688~1703)頃から。中期になると、上方で腹を開いた「開き焼き」が創作されて関東に伝わり、なかなかに美味いし、精が付くようだと、江戸でもこれを食べる人が増えたという。江戸に鰻蒲焼き屋が現れたのは安永~天明年間(1772~88)頃で、以降、寛政年間(1789~1800)頃に、関東では背開きに変わる。武士の切腹を連想したための縁起担ぎである。

 

蒲焼きにはタレ 決定打はみりん

ちなみに「蒲焼き」とは、穴子、どじょう、なまず、にしん、秋刀魚、鰯、鱧など、くせのある魚の料理法だが、後に鰻の代名詞となった。

そして、「鰻といえば蒲焼き」といわれるようになったのは、調味料にみりんが使われはじめたことが大きな要因で、関東(下総国流山)でみりんの生産が始まった1782年(天明2)以降だという。それまでは主に酒肴として食べられていた鰻のタレは、醤油と諸白酒(日本酒)の辛めの味わいだったが、文化年間(1804~18)に、鰻飯(鰻丼)が登場、タレはご飯に染み込むので、甘い味が好まれた。

 

タレを守ってくれた職人魂

蒲焼きに焼き鳥、照り焼き、串焼きなど、世界でも有数の焼き物好きな我々日本人、タレがなければ、ここまで焼き物好きになったかどうか。気の遠くなるような長い間、タレを愛し、守り、伝承し続けた職人魂に心から感謝したい。

歳時記×食文化研究所

代表 北野智子

 

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この記事を書いた人

編集部
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