ここしばらくは猟師作業ほかバタバタしていたら、気付けば夏となっていた。そしてこのひと月の間、食べまくっていたのがビワである。
たわわ過ぎるビワの実が頭上からバラバラ
そのビワは、これまた たけのこ同様、猪の罠を掛けている農園のところどころに自生しているビワの木からもいだものである。
広大な農園内のあちこちにある猪の通いに掛けている罠のうちの一つに、大きなビワの木が3本ある。罠場所にはそれぞれ適当な名前を付けるのだが、ここの名前はそのまんま「ビワの木下」である。
昨年この場所では猪2頭を罠でくくったが、今年に入ってから猪の気配は薄くなってしまった。代わりに、毎朝撒くヌカは、農園に棲んでいるコジュケイやキジバト、シジュウカラ、ウズラなどの鳥たちがついばみに来ているのだ。
冬の頃からひっそりと多くの白い小花を咲かせていたビワの木、梅雨の頃から実をつけ始めた。最初は小さなサイズであったが、そのうちにどんどん大きくなり、橙色も濃くなり、そのたわわに実る数たるや、重みで枝がしなるほど。毎朝見回りに行くとたくさんのビワが地面に落ちている。落下する前にと、鳥たちもせっせとついばみ、私もせっせともいでいるが追いつかない。
実は、私の中ではビワは地味な存在であった。なんというか、この時季に絶対食べる果物というものではなかったのに、今年になって、こんなビワ三昧の日々となるとは驚きである。
ビワの来た道
ビワは奈良時代に中国から渡来したとされているが、日本にも原生する固有品種があったらしい。日本の原生種は果実が小さいが、栽培が盛んな茂木ビワ(長崎県)や田中ビワ(千葉県)の二大品種は、いずれも中国からの渡来種だという。
ビワという名前は、これも奈良時代に中央アジアから中国・朝鮮半島を経て伝来した楽器・琵琶に、その実の形が、あるいは葉の形が似ているから名付けられたという説がある。『たべもの起源事典』(岡田哲編/東京堂出版)によると、ビワの栽培が試みられるようになるのは、江戸時代からとか。
ビワの木にまつわる怖い言い伝え
食べて美味しいビワだが、庭に植えるとなると嫌われてきたという。それは、ビワが日本の寒冷地方ではなかなか結実しないところから、「栽培者が死なないと実が生らない」だの、「ビワの木があると病人が絶えない」だのと忌み嫌われ、庭木として好まれなかったというのだ。また、茂って大木になる性質から、庭に植えると風通しが悪くなり、家人の健康を害するとか、家を壊すなど、縁起の悪い木としての俗説が広がったという。
そういえば、農園のビワの木が生えている場所はうっそうとした日陰で、その木が老木であることもあろうが、木肌はごつごつ・ぼこぼことしており、だ円形でベロンと大きな葉は、縁辺にギザギザの鋸歯があり、妙に濃く深い緑色で、ちょっとおどろおどろしい。まだ誰もいない早朝の農園、その奥まった「ビワの木下」と呼んでいるほの暗い罠場で独り佇み、そんなことを思いながらビワの木を眺めていると、どこからか、「ベェ~ン、ベベン~♪」と琵琶の音が聞こえてくるような…。さらには琵琶法師といえば、即思い起こされるのが「耳なし芳一」である。今度は、「芳一~、芳一~!」と呼ぶ、平家の亡者の声までが響いてくる気がした途端、その場からそそくさと走り去ってしまう私である。
暑気払いに飲まれていたビワ葉を煎じた飲料
江戸時代には夏になると、「枇杷葉湯(びわようとう)」という、乾燥させたビワの葉に肉桂や甘茶を混ぜて煎じた汁が市中で売られていた。暑気あたりや下痢などを防ぐ効能があったといい、京都は烏丸(からすま)に本家があったことから、カラスが描かれた絵行灯をかかげて、「元祖烏丸枇杷葉湯」と言いながら、売り歩くのが夏の風物詩であったという。煎薬の香りと甘みのある熱々の湯は、夏の心身を爽やかにしてくれたようで、大人も子どもも愛飲したという。「ビワの木があると病人が絶えない」などという怖い言い伝えを持つビワだが、一方ではこんな薬効があるとされてきたのだ。
もいできたビワは、みずみずしく、ジューシーで甘酸っぱく、毎日パクパクつまんでいる。食べても食べても、うなるほどあるので、近々ジャムや果実酒にしてみるつもりだ。
歳時記×食文化研究所
代表 北野智子