私は自分の仕事や行動パターンから、昼ごはんは我が家にてひとりで食べることが多い。この“おたのしみひとり昼食”はキケンだ。何がキケンかと言うと、何を食べようが、何を飲もうが、誰も見ていないし、誰も呆れないので、太るとはわかっているのに、いちいち定食仕立てにしてしまうからだ。
定食作りの言い訳
私の昼ごはんは一日の中で最も量が多い。言い訳になるが、朝はほとんど食べられないので、少々のヨーグルトにたっぷりのコーヒーのみ。そして、猟師もしている私の毎日は、朝早くから山林へ出掛け、有害鳥獣捕獲の罠見回りから始まる。その際、猪が罠に掛かっておれば捕獲して解体となり、掛かっていなければ猟場各所にヌカをまき、新しく罠を掛けたりする。これは肉体労働である。ゆえに昼ごはんの量が多いのは致し方ないのだ。
キケンな昼定食とは
お揚げさんを甘辛く煮ることから始まるきつねうどんやたぬきそばを作れば、炊飯器に残っているごはんをわざわざおにぎりにし、チャッチャと焼いた出汁巻きも添えてしまう。前夜が炊き込みごはんであればなお嬉しで、おにぎりのサイズはさらに大きくなる。スパゲッティナポリタンには、一緒に食べるのが好きな白ごはんと目玉焼き添えの一皿が付く。ミンチやハム、野菜などを具にしたバター焼き飯には、スープだけでいいものを、いちいちマカロニを茹でて玉子でとじたコンソメスープ。木の葉丼には吸い物だけとはいかず、とろろ昆布をたっぷりのせたにうめんを…ああ、書いているとキリが無い。
一応、キッチンに立った時はまだ理性が働いており、きつねうどんやスパゲッティナポリタンなど主役のみでいこうという考えなのである。しかし、いざ調理を始めた途端に勝手に手が動いてあれもこれもと作ってしまう。
ならば、ごはんと昨日のおかずの残り等でいけば簡単かつ量も抑えられるではないかと思うが、これはこれでまた、玉子焼きだの、ウィンナー炒めだの、何かしら一品を作ったり、主役が小鉢に変身するだけのプチきつねうどん、プチナポリタンなどを作ってしまったりする。やれやれ、定食好きにも困ったものだ。
初めての定食体験
思えば大人になるまで、外食では定食に無縁な子であった。それは、私の⺟が、美味しいもののみを⾷べたい=ご飯や副菜、吸い物でお腹がふくれるのはイヤよ、というワガママ単品注文主義者、父はお酒を呑むので旨いアテさえあればOKで、ご飯と汁物は不要であったからだ。私においては、幼い頃は少食っ子だったし(今ではウソのようだが)、母と同じような傾向があったから、定食なるものを食べずとも不満はなかった。
そんな私が初めて外で食べた定食として、はっきりと思い出に残っているものがある。それは、大阪ミナミ道頓堀の今は無き「えび道楽」という店へ行った時のこと。大きなえびフライがのったメインの皿に野菜サラダ、お櫃に入ったご飯、赤出汁の定食であった。
幼稚園児だった私は、ここの定食で、世の中には茶色の味噌汁があることを知ったのであった。母が京都人なので、我が家の味噌汁といえば、はんなり甘い白味噌仕立て。それ以外は、実家が海産物を商っていたので、はまぐりやあさり、鯛、はもなどの潮汁や鰻の肝吸い、鯨の鹿の子と水菜の吸い物など旬の魚介が入ったすまし仕立てのものや冬場の塩鮭のアラ入り粕汁だったため、茶色の味噌汁にはかなりショックを受けたのをよく覚えている。初めて啜った赤出汁の辛みが大人の味であったことも。
定食というものはいつ頃生まれたのか?
江戸時代、屋台の料理を経て、料理店の始まりは奈良茶飯屋だとされている。奈良茶飯とはもともとは奈良の茶粥のこと。井原西鶴の『西鶴置土産』(1693年/元禄6)に、浅草に奈良茶飯の店ができたことが記されている。幕末の1852年(嘉永5)刊、喜多村香城『五月雨草紙』に出てくる「百膳」という店は、「大竹輪、椎茸、青身魚の煮しめにツミレ汁と飯、香の物を、一食100文で提供した」とされ、現在の定食屋にも出て来そうなメニューではないか。さらに時代は下って1886年(明治19)、東京新橋に開業した大衆食堂「新富楼」では、「パンと日本酒1本、さしみにスープなどの和洋折衷料理が一人前25銭」とある。パンと日本酒にさしみとは、明治期らしい何とも面白いメニューであるが、ことほどさように定食は思い思いの食べたいもので構成していいのである。
歳時記×食文化研究所
代表 北野智子