【歴メシを愉しむ(153)】パンの嘗めもの(2) ジャム

カテゴリー:食情報 投稿日:2024.07.11

パンの嘗(な)めもの話の続きである。

かつてパンが世の中に出始めた頃、バターやジャムのことは、「パンの嘗めもの」と呼ばれていた。日本においては、バターよりも先にジャムが国内で生産されたという。

 

どのジャムが好きか

人それぞれに好きなジャムの種類をお持ちであろう。私の好みはいろいろだが、今後の人生、このジャムだけしかパンに塗ることができないと言われれば、平凡かもしれないが、イチゴジャムだろうと思う。相手がスコーンということなら、断然ブルーベリーだが。

おそらく最も好まれていると思われるイチゴジャムだが、かつて国産ジャムの製造が始まった時、一番多かったのは意外にもアンズジャムだったらしい。これには少なからず驚きがあった。というのも、私の周囲には、一番好きなジャムとしてイチゴ以外ではブルーベリーを挙げる人は多かったが、アンズという人は居なかった。アンズジャムは美味しいが、これを一番に挙げる人は、なかなか通であるように思う。

 

パンを食べたらキリシタンとみなされ…

日本にパンが伝来したのは、室町後期の1543年(天文12)、ポルトガル船が種子島に漂着した時。後、1549年(天文18)に鹿児島に上陸したキリスト教宣教師フランシスコ・ザビエルはキリスト教とパンと葡萄酒を伝えたとされる。

いったんは広まりかけていたパン食文化は、キリスト教弾圧によって、鳴りを潜めてしまう。パンを食べる者はキリシタンとみなされ、日本人はパンを食べることはもちろん、焼くこともできなかった時代が長く続いたのだ。

もしも私がその当時現場にいて、見たこともない摩訶不思議なパンという食べものを目の前にしたら、キリシタンと思われようが、ヨダレを流しつつ密かに頬張ったに違いない。歴史の表には出てこないが、往時も私と同じように食い意地と好奇心満々の人がいたのではないかと思っている。

 

兵糧パンから菓子パンへ 日本人の創意工夫

江戸時代になると、長崎にはオランダ商館出入りのパン屋はあったが、一般の日本人はまだパンというものを知らなかったようだ。

パンが脚光を浴び始めるのは、幕末になってから。伊豆韮山(いずにらやま)の代官・江川太郎左衛門が、兵糧(ひょうろう)にとパンを作り始めたのだ。その理由というのが、パンは持ち運びが便利、日持ちがするなどもあるが、一番の理由は、日本式の炊飯をすると、煙が上がるため、敵に存在がばれてしまうので、炊飯の必要が無いパンを兵に携帯させるためであったとか。以後、薩摩、長州などの諸藩もこれに倣(なら)って、全国的に兵糧パンが広まっていったという。

パンが広く親しまれるようになったのは、日本人が創作したあんパン、ジャムパン、クリームパン、甘食、蜜パンなど菓子パンの登場から。これによって、日本人は急速にパンに馴染んでいったのだ。

 

ジャムパンの登場

国産ジャムの製造は明治時代に始まった。1881年(明治14)に、長野県の現小諸市で果樹栽培に情熱を傾けた塩川伊一郎氏が日本で最初のイチゴジャム缶詰製造に成功。その二代目伊一郎氏が明治43年、明治天皇・皇后に、自家製イチゴジャムを献上したという。

しかし、イチゴのジャムは値段が張ることもあって、戦前まではアンズジャムが圧倒的に多かったようで、1900年(明治33)に木村屋が初めて日本で初めて売り出したジャムパンに使用されていたのもアンズジャムだった。

当時は「ジャミパン」と呼ばれていたというから、嬉しくなってしまう。バタやシウマイ、レイコーなど、昔の呼び名に魅かれる私、「ジャムパン」というより、「ジャミパン」と呼んだ方が、ずっと美味しそうに感じるのだ。

幼い頃に食べた懐かしい袋入りのジャミパンが無性に食べたくなってきた。

歳時記×食文化研究所

代表 北野智子

 

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この記事を書いた人

編集部
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