高野山巡礼の続きである。
高野山宿坊の食事はすべて精進料理。見た目は美しくても、清貧を絵に描いたような膳が出てくるのだろうと覚悟していたが、いやはや一品一品彩り豊かで、寺院お手製の心がこもった美味揃いであった。
本場で出合った般若湯に感動
さて心配なのが、これら美味料理はお茶といただくのか…ということだ。しかしここは観光旅館ではなく、真言宗の総本山・高野山の寺院、それもまた仕方のないことである。親友と語りつつ寝酒に部屋で飲もうと、参拝の帰りに宿坊近くの酒店で地酒を買い込んであることだし…と考えていたが、杞憂であった。
夕食をいただく書院に入って席に着くと、配膳してくださる僧侶から渡されたのは、美しい文字で「般若湯(はんにゃとう)」と書かれたお酒の品書き。それを見た時、思わず感動してしまった。
というのも、今まで何度か「般若湯」が出てくる物語を読んだり、歌舞伎や落語に登場するのを聞いたりしたことがあったが、実際に本場・高野山の寺院でこの言葉が使われているのを見たのは初めてであったからだ。
「般若湯」とは、僧侶の間で使われる「酒」の隠語である。「般若」とは、サンスクリット語(梵語/ぼんご)で「智慧」のこと。ゆえに「般若湯」とは、「智慧を出す湯」ということになる。
自然と酒量が抑えられる般若湯
仏教信者には「五戒」という五つの戒めがあり、その一つに、「不飲酒戒(ふおんじゅかい)=酒を飲んではいけない」とある。けれど弘法大師は、『御遺告(ごゆいごう)』の中で、「塩酒(おんしゅ/塩と共に酒を飲むこと)を許す」と説かれたという。もっとも病いを治療する人にはという限定付きであったそうだが、山々に囲まれた高野山、冬季の厳しい冷え込みを凌ぐためなら許されたであろうと考えられ、般若湯として飲まれてきたようである。
古くは中国の歴史書『漢書 食貨志』にも、「酒は百薬の長」という有名な言葉があり、酒は適量を飲めば、どんな薬よりも健康に効果があるといわれている。当たり前のことであるが、何事もほどほどが一番なのだ。
こうした背景を持つからか、日本酒好きの私が、般若湯としていただくと、妙に神妙な心地となり、普段の酒量よりうんと少なくなったから不思議である。
とっぷり日も暮れた高野山は静寂と凛とした寒さに包まれている。そんな中、お燗でいただく般若湯は、心と身体にじんわり染み込んでいくように温めてくれた。
遠い国から来てくれた友とゆっくりと杯を重ね、巡礼地の夜は静かに更けていったのであった。
歳時記×食文化研究所
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