前回のコラムで、猟師となった私はまるで修行中の行者のようだと、行者鍋を書いたが、今回は、気分は行者のまま、ほぼ同じ頃、飛鳥時代の鍋に挑戦してみたいと思う。
いにしえの頃、牛乳は高貴な薬だった
奈良県には、「飛鳥鍋」という長い歴史を持つ、郷土料理がある。この鍋は牛乳で鶏肉を煮たものである。飛鳥時代に当時の修行僧が栄養補給に食べ始めた料理とも、宮中の貴族や豪族が食べ始めたとも伝わっている。
日本における牛乳の歴史には興味深いものがある。古くは欽明天皇の時代に ( 540~571年)、百済から牛を輸入したという記録があるという。その後、孝徳天皇の御代に(645~654年)、百済からの帰化人が、初めて牛乳をしぼって天皇に献上したところ大変に喜ばれ、天皇から「和薬使主(やまとのくすりのおみ)」という姓と、「乳長上(ちのちょうじょう)」という職を賜ったそうだ。この名前からも、当時は牛乳が貴重な薬と考えられていたことがわかる。
640年代には唐から乳を飲む習慣がもたらされていたようで、『大宝律令』(701<大宝1>年)によると、宮中に乳牛院が設けられていたという。そこでは、「酥(そ/『蘇』とも)」と呼ばれる、練乳のごとき食品がつくられ、薬として利用されていたという。その脂肪分を集めた「酪(らく)」はバターのようなもので、「酪」から得られる「醍醐」はチーズにあたるとされている。(諸説あり)
これらの乳製品は、今までに口にしたことも無いもので、宮中では流行の最先端の食べものとして、貴族の間で流行ったという。
歴史から姿を消した牛乳やモダン乳製品
歴史上、新しく登場した食べものは、まず宮中や上流階級の間で流行った後、時を経て庶民に伝わることが多いが、牛乳や乳製品は、この一時期を過ぎると、忽然と消えてしまったのである。それは何故かというと、天武天皇によって675年に出された「肉食禁止令の詔(みことのり)」が発端である。さらにその後も幾度にもわたって出された肉食禁止令により、貴族たちから肉食が疎まれた結果、牛乳・乳製品もすたれていったのである。またこの頃、豊富に乳が取れる優れた乳牛がなく、頭数も少なかったことや、牛乳が日本人の体質に合わなかったことも原因らしい。
牛乳をめぐるアメリカ領事と奉行の攻防
時代はググ~ッと下り、江戸時代幕末の頃に、再び牛乳が話題に上る。ペリーの来航により開国した日本に、1856(安政3)年、アメリカ総領事として下田の地に赴任したタウンゼント・ハリス。彼の大きな悩みは、食べものの違いであった。日本では肉食ができず、栄養不良に陥ったハリスは、下田奉行に、せめて牛乳を飲ませてほしいと頼んだが、当時の日本では、田畑を耕してくれる牛は農民の財産といわれ、どんな貧農でも牛を一頭飼い、非常に大事にしていた。その牛の乳は仔牛のものであり、人間が飲むことなど想像もつかず、驚きをもってその要求を断った。もう必死のハリス、牛の乳がダメならば、山羊の乳はどうかと食い下がったが、こちらも断られ、大いに落胆したという。
可哀想なハリスは、日米修好通商条約を成立させた後に帰国するが、そのわずか数年後、明治の世になり、福沢諭吉らによって牛乳の効能が謳われたそうな。
飛鳥鍋で春までの寒さをしのぐ
さて、関西人にとっての春は、「東大寺のお水取り(3月1日~14日)」が終わってからやって来る。それまでの寒さをしのぐためにも、飛鳥鍋で温まることにしよう。
ご当地・奈良では、学校給食にも出るそうで、各家庭では、鶏ガラスープや鰹出汁などを使い、白味噌や塩で味付けをする。定番野菜の白菜のほか季節の野菜、豆腐などを入れ、グツグツ煮れば煮るほど具材はほろほろになり、牛乳はふわふわとおぼろ状になってくる。まるで和風クリームシチューのような心も身体もほっこりするこの美味、飛鳥人も楽しんでいたのだろうか。
【飛鳥鍋の作り方】
(1)牛乳800ml、鶏ガラスープ400ml、酒と塩各少々を入れて煮立たせ、白味噌適宜を溶き入れる。
(2)再び煮立たせて鶏肉を入れ、火が通ってきたら、白菜のほか、ほうれん草、白ねぎ、椎茸など好みの野菜と豆腐を入れる。
歳時記×食文化研究所
北野 智子
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