さらに続けて、丼の話である。
今回は日本の代表的とされる丼それぞれの誕生について記していきたい。歴史上古いものから挙げていくと、鰻丼、天丼、牛丼、親子丼、カツ丼となるようである。
丼の誕生は「鰻丼」から
現在も夏土用の丑の日に日本中で食べられている「鰻丼」は、江戸時代の文化年間(1804~1818)に、日本橋堺町の芝居小屋主・大久保今助が発明したとされる。今助は大好きな芝居を観ながら、毎度 馴染みの鰻屋から好物の鰻の蒲焼を出前で取って食べていたが、鰻と飯が別々では冷めてしまうのが不満であった。そこで鰻屋に頼んで、重箱ではなく瀬戸物の大きな丼を用いて、熱々のご飯の上に鰻をのせてフタをして運ばせたところ、これが大正解。温かい鰻丼が誕生し、たちまち江戸っ子の間で評判になったという。幕末の江戸と京坂の風俗を記した『守貞漫稿』には、「京坂ではまぶし、江戸ではどんぶりという。うなぎ丼飯の略である」とある。
そば屋が生んだ「天丼」
次いで登場するのが「天ぷらそば」から生まれたとされる「天丼」。発祥には諸説あり、一番古いとされている説が1831(天保2)年創業、東京新橋の橋善。始まりは屋台のそば屋で、そばにのせるために天ぷらを揚げ始めたという。ある時、職人が売れ残りの天ぷらをご飯にのせて食べたてみたら美味しかったので、これを売り始めたところ大繁盛。やがて天丼を名物とする天ぷら屋になったという。170年間続いた橋善は2002(平成14)年に閉店、残念なことである。
明治に登場した西洋丼「牛丼」
日本の洋食のルーツである牛鍋から生まれたのが、西洋丼トップバッターの「牛丼」。牛丼の元祖である牛飯の屋台が出現したのが1887(明治20)年頃の東京で、牛コマ肉とねぎを煮込んで丼飯にかけた「牛めしブッカケ」なるものが誕生した。ロース肉の牛鍋が一人前3~4銭に対して、牛飯は一銭と安価で、労働者に歓迎されたという。牛丼で有名な吉野家は、1899(明治32)年に日本橋の魚河岸で創業の後、1926(大正15)年に築地に移転、その頃から牛丼を出していたとされ、人気を博していたようだ。
しゃも派、かしわ派~東西発祥説がある「親子丼」
いよいよ「木の葉丼」に並んで私の好物丼ツートップの一つ、「親子丼」の登場である。
そば屋のタネ物「親子南蛮」(鴨肉を使った鶏卵とじ)の変形版ともいうべき「親子丼」には、東京と大阪それぞれに発祥説がある。東京の方は創業1760(宝暦10)年の日本橋人形町のしゃも鍋屋・玉ひで。1893(明治26)年頃、五代目当主の妻とくが、しゃも鍋に卵を落としてご飯にかけたものをきっかけに、ブツ切りのしゃも肉を醤油やみりんで甘く煮て玉子でとじた親子丼を考案したという。
一方、大阪の方は1903(明治36)年、大阪で開催された第5回勧業博覧会会場で誕生した。5ヵ月の会期中、入場者は500万人を超す大人気で、食べもの屋の前には大行列ができた。そこで客を待たせることなく、美味な食べものはないかと考えた結果、かしわ(鶏肉)を卵でとじてご飯にのせたメニューを考案、「親子丼」の登場である。販売したのは、薬問屋が軒を連ねる大阪市内道修町の鳥料理店・鳥菊で、大阪名物になったという。
西洋丼2番手は「カツ丼」
トンカツブームを経て生まれたのが「カツ丼」。1918(大正7)年、江戸時代から続く早稲田のそば屋・三朝庵が、当時大流行していた洋食に対抗しようと、洋食のトンカツと親子丼を足して二で割ったような発想で「カツ丼」を考案したという。
さらに加えると、もう一つ、この頃に「カツ丼」と呼ばれ、現在でいう「ソースカツ丼」の元祖のような丼も、早稲田高等学院の学生・中西敬二郎によって創作されていたという説もある。
さまざまな代表的丼の来た道をたどってきたが、先人たちの美味と新しい味の追求と創作力に頭が下がる。さすがは世界に誇る日本の丼文化である。
歳時記×食文化研究所
北野 智子
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