何やかや世情に気を揉んでいるうちに、気が付けば7月も半ばである。夏の暑さを改めて身体に感じるのは、やはり、ひんやりした快感に触れた時であろうか。
大阪人が、「ちめたぁ~!」と、ちょっと嬉し気に叫んだら、それは、「とても冷たい!」という歓喜の声。この歓声を発するシーンは大抵、頭ジンジンしながらも、ゴキゲンにかき氷を食べている時である。
昔の冷蔵庫とは?
旧暦6月1日(新暦7月21日にあたる日)は、「氷室(ひむろ)の節句」といい、冬の間に氷室に貯えた氷を取り出し、朝廷や将軍家に献上する行事があった。この日、天皇や将軍が暑気払いとして、氷を口にしたり、氷の上に小豆餡をのせた氷餅を食べたという。
氷室とは、冬に池に張った氷を切り出し、冷気漂う山野の洞窟や穴などに、茅やもみ殻を敷いて氷を置き、その上を草などで覆って保存しておく場所で、昔の冷蔵庫のようなもの。日本最古の氷室は、『日本書紀』(720年/養老4)によると、大和国闘鶏野(つげの/奈良県山辺郡都祁(つげ)村。現在は奈良市に編入され消滅)にあったという。平安中期の『延喜式』(927年/延長5)には、大和、山城、丹波、近江、河内などに21ヵ所の氷室が、そこへ貯蔵する氷をとるための氷池は540ヵ所あった記録があり、二百数十年後にはかなり増えていたようだ。
高貴な人だけが食べられた、超貴重だった氷
真夏の氷は一部の特権階級だけが得られる大変貴重なもので、庶民にとっては夢のようなもの。そこで宮中の貴族にならって、氷をかたどった「水無月」(6月末の「夏越の祓(なごしのはらえ)」の行事食でもある和菓子)が作られるようになったとか。
平安時代に、宮中で氷がどのように食べられていたのかを、あの有名な二大宮中ものから見てみるとしよう。
まずは、清少納言の『枕草子』(1001年頃成立/長保3)。三十九段「あてなるもの(=上品なもの)」として、「削り氷(ひ)にあまずら入れて、あたらしき金鋺(かなまり)に入れたる。」と記されており、「削った氷にあまづら(蔓草の樹液で作られたとされる甘味料)をかけて、新しい金属製の鋺(わん)に入れたもの」という意味で、この「あまづら」も高貴な人しか口にすることができなかった。
また、紫式部の『源氏物語』(寛弘<1004~12年>頃成立)にも、「常夏巻」に、食事用に出された氷が登場する。「いと暑き日」に、「氷水召して、水飯など、とりどりにさうどきつつ食ふ。」とあり、氷水をかけて格別に冷たくした贅沢な水飯を楽しむ太政大臣・光源氏の権勢が伝わってくる。今でも暑さで食欲が無い夏場の茶漬として、冷たいお茶と氷を浮かべて食べるが、これは大変な贅沢茶漬だったのだ。
今は昔のノスタルジックなかき氷
おチビの頃から私が好きなかき氷は、イチゴ。これでもか! というぐらい毒々しいほどに真っ赤なイチゴシロップが大好きで、舌も真っ赤っかになるが、これだけではない。イチゴシロップの上から真っ赤な色が隠れるぐらいコンデンスミルクを垂らすのだ。その銘柄も決まっていて、今は無き赤と白の缶に入った雪印のもの。幼い頃は甘いモノが苦手だったのに、このコンデンスミルクだけは別で、かき氷の他に、イチゴにも、トーストにもたっぷりかけるのが大好きだった。
コンデンスミルクトースト好きになったのは、幼い頃から現在までずっと愛してきたくまのプーさんが、パンに蜂蜜とコンデンスミルクをかけるのが好きだったせいでもある。母親は呆れながらも、ミルクティーを作る時はいつもコンデンスミルクをトロットロに入れてくれたものだった。
しかしここ数年、かき氷に革命が起きた。氷そのものから違っており、ふわふわ淡雪のごとく舌の上で消える氷に、こだわりのシロップ、トッピングのフルーツなどなど、昔のものとはまるで別物である。目の奥にキ~ンと刺さるような赤色のイチゴ、黄色のレモン、緑色のメロンなどのシロップがかかっただけのかき氷を見かけなくなったのは寂しいことだ。そして赤と白のコンデンスミルク缶も消えていった。気が付けば自分も、甘い紅茶は飲めない大人体質(?)になっている。
私が愛したかき氷はもう、ノスタルジックな食べものになってしまったようである。
歳時記×食文化研究所
北野智子