前回は蒸し暑い梅雨の涼味「ところてん」について書いたが、今回はその続編である。
その後、急遽作った自家製黒蜜で、ところてんをおやつタイムに堪能している私。同じように冷やっこくてツルンツルンの食感と喉越しの食べものを、食事の時にも楽しみたいなあと思っていたところ、思い出したのが、「夏の煮こごり」である。
ところてんが変身して寒天に
ところてんは凍結乾燥すると寒天に変身する。江戸時代の万治年間(1658~61)に、京都伏見の本陣・美濃屋太郎左衛門方で寒天は誕生したとされている。参勤交代の途上に宿泊した薩摩藩主・島津光久が夕膳で食べ残したところてん料理が、厳冬の折 夜中に凍り、日中に氷が溶けて乾燥した。綺麗な白い色をしていたので、煮直したところ、弾力のある固まりとなったことから寒天が創作されたとか。
この「寒天」という名前は、「寒晒心太(かんざらしところてん)」の略名で、一説によると、あの黄檗山萬福寺の隠元和尚による命名で、「寒い空(=天)の下で生まれた」という意味がこもっているらしい。以後、禅寺の点心の素材にも使われ、文化年間(1804~18年)頃から練羊羹にも用いられるようになった。
「夏の煮こごり」は魚食王国にっぽんならではの発明料理
漢字で「煮凝り」、また、「凝り」「凝魚」「氷凝」と書いて「こごり」とも呼ばれる「煮こごり」は、魚を煮て冷やし、その煮汁ごと固まらせたもの。魚に含まれるゼラチン質が煮汁に溶け出し、冷えるとゼリー状に固まることを利用した古くからある料理で、室町時代の『四条流包丁書』にも載っているという。
本来「煮こごり」は冬の季語にもなっている冬季の料理で、暑い夏場は固まりにくいが、そこは魚食王国にっぽん、見た目涼やかな風情ある姿に、ところてんのようなツルンとした喉ごしの煮こごりを、なんとか夏にも食べたい!と考えた料理人(もしくは魚と酒好きの居酒屋の亭主か?)が、煮汁に寒天を加えて固めることを思い付いたのだろう。
江戸時代の料理書『黒白精味集』(延享3年/1746)に、「夏こごりの法」として、「ところてんの如く寒天を煮て 葛少し入れ 溜(たまり)にて塩梅(あんばい)して 醤油にて下煮したる魚を 皿にても鉢にても入れ その上へかけ置きさまして出す」とある。
通ぶった渋顔で食べたい煮こごり
かれい、すずき、ひらめ、こち、めごち、はぜ、赤えいなど、ゼラチン質を含んだ魚が煮こごりに向いているとされる。文献資料を読むと、古くは主に鮒を用いたとあるが、鮫の皮を用いた煮こごりもよく作られたという。この鮫入り煮こごりについて、池波正太郎著「好事福盧と煮こごり」(『食卓の情景』新潮文庫)に書かれている。氏は、冬になると駄菓子屋で売っていた、一個一銭の鮫の切りくずや皮入りの煮こごりが大好物で、夕飯時に祖母や母から二銭もらって煮こごりを二つ買い、夕餉の膳でごはんのおかずにして食べるのが大好きだったというのだ。それを見た曾祖母が、「本当に変わった子だよ」と言いつつ、「今度はあたしが旨いのをこしらえてやろう」と、とても美味な鰈の煮こごりを作ってくれたという。タイムスリップをして、幼少の池波正太郎と並んで食べてみたい素敵な煮こごり描写なのだ。
大阪人の私が大好きな夏の煮こごりは、煮汁と寒天が織り成す琥珀色のゼリーの中に白い牡丹の花が咲いたような鱧ちりを閉じ込めた「鱧の煮こごり」。割烹店で夏の八寸としても出される、浪速ならではの通な酒肴だ。
煮こごりを食べる時の私は、またまた時代劇中の、どこか通めいた風情の渋顔男となり、裏通りにある実はこだわりの居酒屋で、「ふふん、おんな子どもには、この味はわかるめえよ…」などとつぶやきながら、冷や酒を飲むのである。もうほとんど病気であるが、池波正太郎ファンの方なら、わかってもらえるかもしれない。(笑)
歳時記×食文化研究所
北野智子