今年の春一番はすでに関東では吹いたが、関西にはまだ訪れていない。春の嵐とも呼ばれる、2月半ばから終わり頃に吹くこの雨まじりの突風は、春を連れてくるとされている。しかし昔から関西人は、春一番が吹こうが、少々暖かくなろうが、「お水取りが終わるまで春は来ない」と信じ込んでいる。関西では、この時節に交わされる会話の冒頭が、「寒いですねえ~」であっても、「ちょっと暖かくなりましたね」であっても、必ず受ける方の言葉は、「やっぱり、お水取りが終わるまではねえ~」となるのである。
お水取りにまつわる椿の生菓子
「お水取り」は奈良の東大寺二月堂で3月1日から14日まで行われる「修二会(しゅにえ)」のこと。天平勝宝4年(752)に始まり、現在まで千二百年以上も途切れることなく続けられている春迎えの神事である。儀式の初めには、行法を行う練行衆と呼ばれる僧の、和紙で丹念に作った椿の花が内陣に供花として飾られる。
開山堂に由来する「糊こぼし」という名椿を模したこの椿は、黄色のしべに紅白の花弁が鮮やかで、惚れぼれ美しい。この時期、お膝元の奈良の和菓子屋では、この造花の椿に似せた色姿の生菓子が店頭を飾る。その愛らしい食べる椿の花に魅せられて、いくつも買ってしまう。
こちらもこの時季に食べたい古来の椿餅
木偏に春と書く「椿」は、文字通り春を象徴する花で、古くから日本に自生し、古代には、「栄木(さかき)」として神に供せられる神木の常緑樹として用いられたとされ、邪気を祓うともいわれている。冬枯れの寂しい庭を彩ってくれる早咲きのものから爛漫の春に咲くものまで、その種類は800種以上もあるそうで、まさに冬から春を繋ぐ花である。
この椿の葉を用いて作られるのが椿餅。真っ白でつぶつぶの餅を、艶やかな椿の緑の葉と葉に挟んだこの菓子の歴史は古く、平安時代の源氏物語にも登場している。
第34帖「若菜上」に、「わざとなく、椿餅(つばいもちひ)、梨、柑子(こうじ=蜜柑)やうの物ども、さまざまに、箱の蓋どもにとりまぜつつあるを、若き人びとそぼれとり食ふ。」―蹴鞠に興じる若人たちが、はしゃぎながら気軽に食べるおやつとして描かれているのだ。源氏物語の注釈書である『河海抄』(14世紀)によると、ここで登場する椿餅は、「餅の粉と甘葛(あまずら/当時の甘味料)を団子にし、椿の葉で挟んだもの」とされているが、現在では、餡を道明寺生地で包んだものが多い。
椿餅は、花の無い時季に、つやつやと鮮やかな常緑の椿の葉で新緑を待ちかねる気持ちと邪気祓いの願いが込められていたのだろう。
お水取りまであと少し。伝統の神事にちなんだ椿の生菓子に、源氏物語ゆかりの椿餅、今だけの美味なる菓子をたんと味わっておきたいものだ。
歳時記×食文化研究所
北野智子