もの悲しい和歌から生まれた紅葉の名
前回11月15日に迎えた「狩猟の解禁日」にちなんで、江戸時代後期に、江戸の町に増えはじめた獣の肉を商う店・「ももんじ屋」と、そこで「薬喰い」と称して食された、「山鯨」や「牡丹」などの隠語で呼ばれた猪肉について記した。
今回はそのももんじ屋において、猪と共に食べられていた、こちらは「紅葉(もみじ)」と美しく呼ばれる肉の話である。これはご存知の方も多いと思うが、「鹿肉」のことで、「紅葉鍋」は、鹿肉と野菜をすき焼き風に仕立てたもの。
風情ある「紅葉」の呼び名は、古今和歌集の「奥山に紅葉踏みわけ鳴く鹿の 声きく時ぞ 秋は悲しき」(猿丸太夫)の歌からだという。
百人一首の中で、私はこの歌が好きで、そこはかとない物悲しさ、寂しさを感じる。万葉集の昔から読まれてきた和歌の中の鹿は、物悲しい存在としてとらえられ、その鳴き声を聞くと、しみじみと秋の深まりを感じさせる。
古くから鹿と人間の関りは深く、旧石器時代から鹿や猪の骨が出土しており、弥生時代の銅鐸には鹿を狩猟する様子が描かれているものがある。
万葉集の「茜さす紫野ゆき標野ゆき 野守は見ずや君が袖ふる」―額田王の有名なこの歌は、宮廷行事として五月五日に行われた薬狩りの様子で、その目的は鹿の袋角(鹿茸)と薬草の採取だったといわれている。『和漢三才図会』には、「鹿茸は筋肉を強化し、精をつけ、血液や髄を補養する」と述べている。薬用人参とともに二大霊薬と称されたそうだ。
それにしても、飛鳥・奈良時代の「薬狩り」(「薬猟」とも)といい、江戸時代の「薬喰い」など、なんでもかんでも「薬」と称していたのが面白い。
古代の代表的な肉は鹿と猪だったようで、猪は「宍(しし)」で、鹿は「山の宍」や「かのしし」ともいわれていた。獣肉の料理は、肉を細かく切って生で食す「膾(なます)」から始まったとされ、それを保存するために塩漬けや干肉に加工し、干肉を麹や塩を混ぜた酒に漬けて作る塩辛・鹿醢(ししびしお)にも仕立てた。
猟で見た鹿にイメージも一変
狩猟免許を取得するも猟師見習い中の私、昨年の猟期には、兵庫県の山々で地元猟友会の猟師さんによる鹿の銃猟「巻狩り」を見学させてもらった。
この猟は鹿を山から追い立てる勢子と呼ばれる人と狩猟犬、追われた鹿を待ち構えて銃で仕留めるタツマと呼ばれる人により構成されている。
我々見学者はタツマチームに付き、それぞれ所定の位置で獲物が現れるまで静かに待つのである。静まり返る深山の中、寒さは頂点に達し、雨でも雪でもじっと待つ。配られた無線に緊迫した状況や指示が入ってくる以外は、シィ~~~ン。だんだんと寒さのため感覚が麻痺し始めて、どこからが自分の足の裏で、どこからが地面かわからなくなってくる。そうした中 突然、山の尾根を猛スピードで大きな鹿が空中を飛んでくる。いや、本当に。走るというよりも、跳ね飛んでいるのだ。
その迫力たるや、「紅葉踏みわけ」や「物悲しさ」などは微塵もなく、紅葉を蹴散らし、グワーッと飛んで来る鹿を目の前にして、この歌をこよなく愛してきた私が持っていた鹿のイメージは、ガラリと変わったのであった。
さて、猟見学の後、その日の猟果の分配となる。猪の猟でも同様だが、頂いた命に感謝をして、できる限り余さずいただきたいので可能な限りいろんな部位を頂戴してくる。部位ごとに熟成させた後、江戸時代のももんじ屋を彷彿とさせる紅葉鍋はもちろん、自家製タレに漬け込んだロースのタタキにハーブロースト、モモ肉の赤ワイン煮やトマト煮、塩麹漬けカツレツ、茹でタンのハニーマスタード和え、ハツの煮込み、タコス、ジャンバラヤ、カレーなどなど。今年の猟期には、鹿醢や干肉に挑戦して、万葉人の膳といきたいものだ。
歳時記×食文化研究所
北野智子