天高く馬肥ゆる秋―すっかり秋深まった空を仰ぐと、あまりに晴れていて、吸い込まれるような青だ。嬉しい実りの秋、食欲の秋の女性の好物といえば、さつま芋である。
地域によって呼び方が異なる
さつま芋の原産地は中南米で、15世紀末にコロンブスがスペインに伝えた。
日本へは江戸初期に、フィリピンを経て中国から琉球にわたり、薩摩国に伝えられたという。琉球では唐芋、薩摩国では琉球芋や唐芋、薩摩より以北では薩摩芋と呼ぶ。これは薩摩から諸国へ広まったので、薩摩芋と呼ばれるようになったという。
さつま芋の普及は西日本の方が早く、東日本に広まるのは、享保年間(1716~1736)。享保19年(1734)、幕命により飢饉対策の作物として、江戸小石川の薬園でさつま芋の栽培を成功させた青木昆陽のおかげだ。昆陽は、飢饉に供えてさつま芋の栽培の必要性を説く『蕃藷考』(享保20)を記して普及に努め、「甘藷先生」と慕われた。
江戸時代の売り詞は「ほっこり、ほっこり」
もうほとんど見かけなくなったが、かつては町内に響く、「いしやぁ~きいもぉ~、おいもっ!」という、おじさんのユル~イ声が聞こえてくると、ああ、秋だなあと子供心にも思ったものだ。これが江戸時代に戻ると、売り詞は、「ほっこり、ほっこり」となり、行商人が大坂や京都で温かい蒸(ふか)し芋を売っていたそうで、冬の夜によく見られた商売だったと、当時の風俗を記した『守貞謾稿(もりさだまんこう)』に記されている。
また、京坂では蒸し芋が、江戸では焼き芋が流行したとあり、この好みの差はなんとなくわかるような気がする。歴史としては蒸し芋の方が古いのだそうな。
江戸の町に蒸し芋が伝わったのは、明和~天明期(1764~89)頃とか。日本橋堀江町で販売されたそうで、夏は団扇、冬は蒸し芋を売る店が多く、「夏渋く冬甘くなる堀江町」という句が残されているらしい。しかし、なぜ夏は非食品で、冬は食品を売っていたのだろうか?夏には喉ごしの良い心太(ところてん)や白玉を売ってもよさそうに思えるのだが…面白い謎である。
栗(九里)に近い味の八里半
一方、焼き芋屋ができたのは寛政5年(1793)といわれており、『守貞謾稿』によると、番小屋でも焼き芋を売っていた。番小屋というのは、町の警護のため、町境に設けられた木戸番の小屋のことで、番太郎と呼ばれる番人がいた。番太郎は給金が少ないので、今でいう副業として、駄菓子や草履、蝋燭などを売っており、冬には焼き芋を売っていたというから面白い。余計なお世話だが、もっと実入りのよい商品を扱ったらいいのに…などと思ってしまう。(笑)
そのうち京坂にも江戸の町にも、「八里半」「十三里」の行燈をかかげた焼き芋屋が現れる。「八里半」とは「栗(九里)に近い味の八里半」、「十三里」は「栗より(九里四里)うまい十三里」の洒落である。当時 鹿児島県に次いでさつま芋の名産地として有名だった埼玉県川越は江戸の町から十三里で、さつま芋の異名となっていた。
明治前期には「書生さんのヨウカン」
明治維新となり、文明開化の中、東京では焼き芋が大流行したようで、明治前期には、「書生さんのヨウカン」と呼んだというから、うまいこと言うなあと感心する。
しかし、大正12年の関東大震災後は、東京の焼き芋屋は激減し、屋台の石焼き芋屋が盛んになっていったという。
このさつま芋、太平洋戦争時には米不足を補う食物として日本人を支えてくれた。
が、戦後しばらくは救荒作物のイメージが残り、戦争を経験した方の中には辛い思い出と重なるからと、さつま芋を敬遠される人もいる。
時代は下り、地震、台風、大雨…など災害続きの昨今、干し芋や芋けんぴなど古くからあるさつま芋の加工品は、腹持ちがよく、その優しい甘さに心が癒されるので、実は我が家の非常食のラインナップに入れている。定期的に食べてはまた補充をしているが、そうできることに心から感謝をしたい。
歳時記×食文化研究所
北野智子