古くから日本人に愛されてきた鯨肉
日本における鯨食の歴史は古く、鯨は縄文時代から食べられてきたという。
万葉集では「勇魚(いさな)」と呼ばれ、奈良時代から室町時代にかけて公家や上級武士だけが味わえる美味であったようだ。
江戸時代になると捕鯨方法が発明され、中期以降には鯨料理の専門書『鯨肉調味方(げいにくちょうみほう)』ほか『料理物語』『料理早指南』などいろいろな料理本が登場して鯨の料理を紹介。この頃には鯨食は広く庶民にまで広がっていたようだ。
江戸時代の年中行事に「正月迎え」として、12月13日「煤払い」があった。新年を迎えるにあたり、ほこりや汚れを掃除すると同時に、一年間の穢れや厄を祓う伝統的な行事で、大奥から武家、商家、農村でも行われたらしい。
掃除の最中や終了時には、その家の主、嫁、女中などを胴上げする習わしがあったのが面白い。煤払いが無事に終わると、主から使用人に至るまで揃って鯨汁を腹一杯食べる風習があったそうな。
「おのおのの喰い過ぎ顔や鯨汁」―与謝蕪村の高弟・几菫(きとう)がこんな句を残している。参加してみたいような、微笑ましい年中行事だと思う。
明治に入るとノルウェー式近代捕鯨法を導入し、鯨漁はさかんになった。
昭和時代、戦後の食糧難の頃、鯨は貴重なたんぱく質として、家のおかずで、学校の給食で大活躍、日本人を救ってくれたのだ。
しかし1980年代以降、国際的に捕鯨への規制が強化され、入手できる鯨肉は調査捕鯨の副産物や輸入品だけとなり、価格も嘘のように上がってしまった。このことで、家庭料理から鯨は遠のいて、鯨の美味しさを知らない世代も生まれきてしまったのである。
ハリハリ鍋は大阪の食文化
大阪の名物、いや食遺産ともいうべき「ハリハリ鍋」は、鯨と水菜を鍋で炊くものだが、鯨とその出汁がからみついた水菜は絶品で、いくらでも食べられてしまう美味である。
この鍋の誕生は、大阪には太軸の大阪水菜があったことが大きい。名前の由来も、この水菜をさっと煮て食べる時の音「ハリハリ」から、「ハリハリ鍋」と呼ぶようになったというのが、なんとも大阪らしい。
昔は大阪湾にも鯨が入ってきた大阪は、日本の三大捕鯨基地の一つ、紀州太地から近かったこともあり、戦前は日本を代表する鯨肉の集散地だった。
明治18年(1885)に、かつて花街だった大阪・新町で暖簾を掲げた鯨専門店・西玉水(現在は島之内)に始まり、洋風の鯨料理を出す店もあって賑わったという。
大阪は庶民が愛する鯨食文化が花開いた地。鯨肉の入手が難しくなった現在でも、大阪の食文化は伝承されてきた。
今では高値になってしまったハリハリ鍋だが、徳家では、創業当時(1967年)は400円で提供されていたという。何度かお店に伺い、鯨のハリハリ鍋に舌鼓を打ったことがあるが、店内にはいたるところに昔の捕鯨の様子を描いた絵が掲げられていた。徳家のおかみさんは、伝統の鯨料理を守りたいと、国際捕鯨委員会(IWC)の総会に何度も足を運び、各国代表に鯨料理を振る舞ってきた方だ。
昨年12月に、日本は今年 IWCを脱退し、7月から排他的経済水域での商業捕鯨を再開することが決まった。およそ30年ぶりに いよいよ日本近海で商業捕鯨が再開されるという年に、体調を崩され、暖簾を下す決断をされたお気持ちはいかばかりか。
鯨の食文化を育んできた大阪の、鯨を愛する一人として、心痛いことである。
歳時記×食文化研究所
北野 智子