なぜ日本人は肉を食べなかったのか
昔の日本人があまり肉を食べなかったというのは、歴史的な事実です。これには宗教的な理由と政治的な理由の二つの大きな原因があります。
宗教的な理由としては、仏教が伝来して以来、動物の殺生を避ける教えが日本人の間に浸透してきたことが挙げられます。鳥類は比較的食べられていましたが、四本足の動物は「なまぐさ」と忌避されました。牛や馬などの使役家畜は、人間と苦楽を共にする伴侶でしたから、殺して食べるなどとんでもないことでした。
政治的な理由としては、江戸時代を通じて続いた為政者としての徳川家が、庶民の贅沢を許さない方針を貫いたことが挙げられます。五代将軍綱吉によって発布された「生類憐みの令」は有名ですが、食べることだけでなく動物を殺すことさえ禁じられたために、肉類が庶民の口に入ることはほとんどありませんでした。
動物性たんぱく質の主要供給源だった鯨肉
そうした風潮が変化するのは、大政奉還後の文明開化からです。明治政府は、「脱亜入欧」を中心思想としました。アジアの国でありながら、日本は意識的に欧米を真似ていこうとしたのです。その一環として、洋服を着て肉食を行う生活スタイルがもてはやされました。しかし、食肉が豊富にあったかというと、そうではないのです。日本人が何不自由なく肉を食べられるようになったのは、ここ50年くらいのことと考えて良いでしょう。昭和35年くらいまでの日本は、庶民の食卓に肉が並ぶと歓声が上がるくらい、肉は高価な食べものだったのです。
当時の日本人を支えていた動物性たんぱく源は、鯨肉でした。鯨肉こそ、江戸時代から明治、大正、昭和と日本人の「肉食」を一手に引き受けてきた食肉のチャンピオンだったのです。これは、捕鯨の発達とともに保存方法が確立され、鯨肉の安定供給が実現したからにほかなりません。肉は腐りやすいのが難点ですが、鯨肉は塩蔵をはじめ乾燥や氷漬けなど、部位ごとの特長を生かした保存方法がとられました。干した魚と同じ感覚で、救荒食品として内陸部に普及することに成功したのです。
小泉武夫