婚姻とお酒
成人の儀式を終えると、次に迎える人生儀礼は結婚です。見合いをして、双方の結婚の意志が確認できると、「決め酒」と称する儀式が行われたものでした。これは内定の祝い酒のようなものですが、堅苦しい儀式というよりも、「早く決めちゃってみんなで一杯やりましょう」という、仲人の気持ちが表れた風習のようにも私には思えます。
決め酒の席では交わされる手締めの酒の呼び方は、地方によってさまざまあります。私が調べただけでも、「酒入れ」「酒立て」「樽立て」「決まり酒」「固めの酒」「口固めの酒」「口合わせの酒」「定め酒」「手打ち酒」「手入れ酒」「口割り酒」「根切り酒」「袂酒」「瓢(ふくべ)酒」「済み酒」「釘酒」等々。
そして、いよいよ嫁入りの朝。花嫁が夫の家に到着したときに行われた、ユニークな風習があります。花嫁は、お酒を飲まなければ家の中に入ることが許さなかったのです。このときに飲むお酒は、「とぼうの盃」「門(かど)酒」「軒端(のきば)の酒」「敷居の酒」などと、呼び方もいろいろです。埼玉県秩父郡の村で続いていた「とぼうの酒」は、仲人が注いだ木盃のお酒を、花嫁は敷居をまたいだままの格好で飲まなければなりませんでした。
婚姻関係は、新郎新婦が交わす「夫婦(めおと)盃」で成立します。三三九度は今でも行われますが、「相盃(あいさかずき)」「結び盃」「こんこん盃」などの呼び方をする地方もあります。また、嫁入りする新婦が、新しい家族の一員として認めてもらうには、夫の親と取り交わす「親子盃(おやこのさかずき)」の儀式も不可欠でした。
厄払い、お通夜とお酒
人生儀礼は、おめでたい席ばかりではありません。たとえば、厄年があります。男性は25歳と42歳、女性は19歳と33歳。厄払いの儀式にも、お酒は必ず登場しました。
そして、人間は誰でも最後に死を迎えます。人生のしめくくりである葬送の儀式にも、もちろんお酒は欠かせません。遺体を納めた棺の前で夜を過ごす「通夜」は、故人とお酒を汲みかわしながら別れを惜しむ最後の機会です。近年では少なくなりました、入棺の際に近親者が口に含んだお酒を遺体に吹きかける「入棺酒(にっかんざけ)」や「納い酒(しまいざけ)」といった風習もあります。葬儀が済めば、残された人たちは「浄め酒」を飲み、故人との別れの儀式が完了するのです。
日本人は、この世に生を享けてから、節目節目でお酒と緊密に関わり合いながら人生を歩んできた民族なのです。その背景には、お酒は人に生気を与え、喜びを祝し、悲しみを慰め、厄難を浄め、日常を守護するといった、目に見えない霊妙な力があるという飲酒観があります。そのお酒の存在を、日常生活の中に巧みに取り入れることで、日本人は人と人とが支え合って生きる平和な社会を築いてきたと言ってもいいのです。
小泉武夫
※本記事は小泉センセイのCDブック『民族と食の文化 食べるということ』から抜粋しています。
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