大女優・沢村貞子の命を救った!? 鰹節
立派な食べものの中で救荒食品の最たるものといえば、鰹節(かつおぶし)が筆頭に挙がることは間違いないでしょう。ここでは究極の非常時に鰹節が活躍した話をしましょう。
かつての名女優でエッセイストでもあった沢村貞子(さわむらさだこ)さん(1908-1996年)が関東大震災に遭ったときの話です。当時14歳くらいで家族と一緒に浅草に住んでいた沢村さんは、母親から一足先に逃げるように言われて避難したとき、湯ざましの入った鉄瓶(てつびん)と鰹節を持たされたといいます。そして沢村さんは、その鰹節を湯ざましに溶かして飲みながら助けが来るまで生き延びたそうです。(『わたしの台所』沢村貞子 光文社文庫)。
ところで以前、対談集『怪食対談 あれも食ったこれも食った』(小学館)で、作家の荒俣宏(あらまたひろし)さんと鰹節のことで話したことがあります。あの堅いものを非常の場合、噛(か)めるかどうか。その答えは非常食として持ち出した鰹節は、齧(かじ)らなくても嘗(な)めているだけで十分です。その理由は、人の唾液には強力なタンパク質分解酵素があるからで、やがてその酵素の分解力で表面がふやけてきて、クチャクチャとしゃぶることができるのです。鰹節の成分は大部分がタンパク質で、あとはアミノ酸などのうま味成分で構成されています。つまり、 摂取するだけでスタミナ成分や栄養成分は、十分に体に入っていくのです。
大活躍する、うま味成分
タンパク質だけで炭水化物がなければ、生命を維持するこの欠かせないブドウ糖が生成できないだろうと思われがちですが、人間の体はよくできていて、アミノ酸からもブドウ糖が作られます。ですから数日間くらいであれば、水と鰹節だけでも命が保てるのは、そういう理由からです。緊急非常食の場合、削った鰹節より丸々1本の鰹節を持ち出すほうが保存性や時間稼ぎのためにはよいことでしょう。
非常時の救荒食品としての鰹節の優秀さは、栄養学的側面にとどまりません。うま味の素である鰹節は、人間に生きる力を与えてくれるのです。おいしいものを食べたとき、人間は生きていこうという気持ち、つまり気力が湧いてきます。この「気力が湧く」ことが、究極の事態に置かれた人間をどれほど助けてくれるものか、言葉にはできないくらいです。私の家の非常時持ち出し袋には、家族の人数×2本分の鰹節が常に入っています。
小泉武夫