人類は芋に助けられた
世界においても救荒食品の第一は芋類です。多年生の植物の根や根茎が翌年の生育に備えて肥大し、デンプンや多糖類の塊(かたまり)になったものを芋(イモ)と呼びます。根が肥大したのがサツマイモやヤマノイモ、根茎が肥大したのがジャガイモ、サトイモ、コンニャクイモです。飢えと闘ってきた人類の歴史は、イモに助けられた歴史でもあります。世界中でイモの世話にならない民族は、おそらくいないことでしょう。
日本では昔からサトイモがイモ食の中心でした。サツマイモは比較的新しい食材で、慶長(けいちょう)2(1597)年に沖縄県の宮古島(みやこじま)に入り、17世紀に薩摩(さつま)から長崎に伝わりました。鹿児島の人がこれを「カライモ」と呼ぶのは、唐の国(中国や朝鮮半島、また、広く南蛮などの諸外国)から来たイモだからです。鹿児島県以外ではサツマイモと呼ばれ、当時は「甘藷(かんしょ)」とも呼ばれたこのイモが救荒食品として栽培されるようになってから国内の食糧事情が改善しました。サツマイモが栽培されている南九州地方が飢饉のときに餓死者が少なかったことが幕府の目にとまり、江戸時代中期の儒学者で蘭学者の青木昆陽(あおきこんよう)が、江戸への移植に尽力(じんりょく)したのは有名です。
サツマイモは、荒れ地に育ち、手入れが簡単で、腹持ちが良いという救荒食品にピッタリな条件を備えています。食べ方はいろいろありますが、飢饉のときはもっぱら増量材として使われることになり、芋粥や芋雑炊のような食べ方でした。また、飢饉に備える保存食としては、干し芋が携帯面でも味覚面でも優れています。
ジャガタライモが本名!?
ジャガイモが日本に来たのは江戸時代初期と考えられています。ジャガタラ(現在のインドネシアのジャカルタ)からオランダ人によって伝えられたので、ジャガタライモからジャガイモになったといわれ、江戸時代では、今の北海道や山梨県で栽培の記録が残されています。その後馬鈴薯(ばれいしょ)と呼ばれ、あたかも日本に古くからあった植物のように品種改良が重ねられたことは良く知られているところです。
サツマイモもジャガイモも、日本に入って来てから大いに発展した理由は、日本人が救荒食品としての魅力に着目したからにほかなりません。どちらも固体が大きい割に多収穫で、デンプンの含有量に優れ、飢饉の非常食としてはもってこいでした。明治時代になると、サツマイモやジャガイモの品種改良が進み、日本の風土に合った品種が次々に生み出されていきました。
16世紀にカンボジアからポルトガル人の手によって伝えられたというカボチャも、優れた救荒食品でした。そのままでも半年は保つ(もつ)という保存性の良さに加え、当時は薄く切ったカボチャを天日に干したものを保存しました。カボチャは、基本的には炭水化物ですがタンパク質も含み、何よりも緑黄色野菜の代表格として、カロテンなどビタミンの宝庫であるという特色を備えています。
小泉武夫