徳川家康が入城して以来、江戸は政治、経済、文化の中心として発展し、次第に全国最大の消費地としての体制が出来上がっていき、元禄時代には国中の物資が江戸に向かって動くようになった。元禄一〇年(一六九七年)、江戸での酒の消費量は四斗樽で年間六四万樽だったのが、天明五年(一七八五年)には七七万五〇〇〇樽に達し、一八〇〇年代に入って文化文政の頃には、実に一八〇万樽もの酒が江戸に入ってきたと記録されている。
天明七年(一七八七年)の『蜘蛛(くも)の糸巻(いとまき)』によると、当時の江戸は「町数二七七〇余町、市中人口一二八万五三〇〇人」とある。実際の数とは多少の違いはあるだろうが、一〇〇万人を突破していたことは間違いないとみてよいだろう。この人口は当時西欧第一の都市であったロンドンを遥かに凌いで、世界第一であった。江戸の町人居住地は今の中央区、千代田区、港区、台東区の一部、江東区の一部、新宿区の一部、墨田区の一部を含む小さな地域であったから、その人口密度たるや相当のものであった。
人口を仮に一〇〇万人とみて、酒が最も多く江戸に入った量(一八〇万樽)を基準にして一人当たりの年間消費量を算出すると、四斗樽で一・八樽となる。一人当たり毎日欠かさずに約二合飲んでいたことになるが、一部の老人や女性、子供など飲酒をしない人たちを差し引いて換算してみると、飲酒者一人三合を一日も欠かさず一年間飲んでいた勘定になる。これは今日の日本人の一人当たりの飲酒量と比べると実に三倍近くもの量となる。なぜ、これほどの酒が飲まれていたかは謎であるが、それにしても江戸の人たちは酒が強かった。
当時、江戸で消費されていたのは「下り酒(くだりざけ)」と呼ばれた灘目、伊丹、西宮あたりのいわゆる本場からの酒と、美濃、尾張、三河といった東海道筋や江戸周辺からの「地廻(じまわ)り」と呼ばれる酒であった。そのうち「下り酒」は常時七―九割を占めていた。居酒屋は、造り酒屋の片隅で酒を飲ませた酒屋のことを「居酒屋」と呼んでいたのに始まる。そしていよいよ町に居酒屋が独立して増え始め、寛永七年(一六三〇年)に江戸市中に十数件あった居酒屋が、二百年後の天保元年(一八三〇年)には二百軒を超す数にまで増加した。その後、天保の改革の取り締まりで、居酒屋の数が激減し大半が菓子屋などに看板替えしたこともあったが、幕末にかけては江戸、大坂はいうに及ばず全国の主要地で激増していった。
小泉武夫
※トップ写真は「書画五十三駅 遠江袋井弥次喜多酒慾ノ戯」(国立国会図書館デジタルコレクション)
※【小泉武夫・食百珍】は小泉武夫が古今東西の食について語るスペシャル美味探訪譚です(不定期更新)。