神代の昔から食されてきた粥と平安以降に発展した雑炊
特筆すべきことは、汁粥と雑炊の種類の多さです。汁粥は米を多くの水で煮たもので、かつてはこうした食べ方が主流でした。濃さによって名称が異なり、米と水を重量比で1対5で煮たものを「全粥」、1対7が「七分粥」、1対20が「三分粥」、さらに1対10 の割合で煮て汁だけをこし取ったものが「重湯(おもゆ)」、全粥1に対して重湯10の割合で混ぜたものが「御交(おまじり)」です。このように、病人食や離乳食など目的に応じて作り方を決め、それぞれに名前を付けているのは日本人ならではの細やかな発想といえます。
通常の食事としての粥には、白米を煮ただけの白粥よりも、麦、ヒエ、アワ、トチの実、 サツマイモ、ダイコン、クリなどの増量材を入れたものが多かったようです。
粥の味付けも塩だけではなく、茶で煮る茶粥、正月7日の七草粥、1月15日の小豆粥などのバリエーションがありました。
「雑炊」は、一見して粥に似ていますが、味付けされて雑穀や魚介類をいっしょに煮込んだところが粥とは別の料理になるのです。塩雑炊、味噌雑炊、草雑炊などの記録が文献に現われるのは平安時代末期から室町時代にかけてのことですから、神代の昔から食されてきた粥より、はるかに後世のものと考えて良いでしょう。
雑炊の目的は、粥と同じ米の節約のほか、病み上がりの病弱者の栄養補給、消化吸収の助け、冬期の保温食などがあり、日本人が重用した知恵食でした。
現代では、被災地の炊き出しなど救荒食の看板メニューとして、大勢の避難所などで目にします。今後も日本人が米を食べ続ける限り、粥や雑炊は非常時に欠かせない食べものであり続けることでしょう。
小泉武夫