小麦粉を甘酒でこねる??
日本人がはじめてパンを知ったのは、室町時代の天文年間(一五三二~五五)で、ポルトガル人によるという。しかし、「パン」として名が文献に登場したのは、それよりずっと後の江戸時代で、一七一二年の『和漢三才図会』である。そこには「蒸餅(じょうへい)とは、餡(あん)なしのまんじゅうのことで、オランダ人はパンと呼んで常食している」とある。ここで注意しなければならないのは「蒸餅」とあることで、これでは中国式の「饅頭(マントウ)」、すなわち蒸しものであったことになる。
本来、パンは蒸すものではなく、酵母で発酵させた後、焼いたものであるから、「蒸餅」をパンと同じものとみていたことは、当時のパンは中国の方法の影響をかなり受けていたものであったのだろう。
ところが、それから六年後の享保三年(一七一八)に出された『御前菓子秘伝抄』には、びっくりするようなパンの造り方が書かれてある。「小麦粉を甘酒でこね、それを適宜の形にしておくとふくれてくる。一晩寝かせてフルメントをつくる。これを、土を厚く塗りたてた釣り鐘型のかまどに並べ、たきぎを燃やしながら焼く」という内容である。
フルメントとは、ポルトガル語のFermento、すなわち発酵のことである。まさに、蒸餅という中国系の蒸しパンに対して、ヨーロッパ系の発酵パンがここで初めて述べられていることは、実に興味深い。そして、何といっても貴重なのは、甘酒を加えている点であって、これは相当な知恵の証でもある。甘酒は米麴の糖化液で、これには極めて旺盛に酵母が増殖し、発酵する。酵母が十分いて、発酵が理想的に進めば、焼き上げてからの風味は大変良く、そのうえ、甘味も付与できるから、美味なパンができあがったはずである。
蒸しまんじゅうから餡パンへ
ただし、江戸時代にこのような文献があっても、当時、ヨーロッパ系のパンが焼かれていたという証拠は見つかっていない。だが、甘酒という日本独特の発酵補助材を使うことや、日本に見られるかまどを使うなど、かなり具体的な記述があるので、実際には一部でヨーロッパ系パンが焼かれていたのであろう。小麦粉に酒種(さかだね)を加え、発酵させた「酒まんじゅう」との折衷品だったのかもしれない。
その酒まんじゅうは蒸し菓子の一種で、焼いて仕上げる西欧パンとは異なり歴史も古い。その造り方は実に日本的で、もち米をやわらかく煮上げ、そこに麴を加えて糖化を行い甘酒とする。そのままにしておくと酵母の増殖が起こり、風味のアルコールを生成させて、いわゆるドブロク(濁酒)になる。そのドブロクで薄力粉をこね、これで餡を包み、酵母の発酵で十分にふくらませてから、蒸籠(せいろ)で蒸したものである。
当時はその蒸しまんじゅうを平鍋に伏して、そのまんじゅうの頭の部分に焼き印を押したものが主流のようであったが、この製法は明治時代に入るとアンパンに変化した。最初に考えついたのは、明治九年に木村屋初代の木村安兵衛で、米麴と甘酒と酒種を使ったパンに、餡を入れたものであった。その後、次第に日本人の間に広まっていき、明治末年には、全国で一日に数十万個ものアンパンが売れるという大当たりの商品となった。
日本人は、いつの時代でも理に適った知恵とユニークな発想で発酵技術を拓いていくのに長けている。
小泉武夫