食べ物を嚙(か)むということは、その食べ物が胃で消化吸収されることを効率よくすることにあるが、実はほかにさまざまな意味を持っていることが最近の研究で解(わか)ってきた。例えばある研究では、食べ物の中に発ガン性物質があった場合でも、唾液(だえき)が抑制する作用があるのでよく嚙んで食べていると、唾液が多く分泌され予防できるという。少なくとも一回のみ込むのに三十回の咀嚼(そしゃく)をするといいのだそうだ。咀嚼は歯の嚙み合わせを良くして歯並びも良くし、さらに胃の負担を軽くし、口内を清潔に保つのにも効果があるという。
また興味深い研究結果では、嚙むことで脳の血流を活発にし、頭の働きを高めるとともに、仕事などの上での行動に積極性を増させる効果があるという。嚙むに要するエネルギーは食べ物によって異なり「嚙むエネルギーによる食物の分類」によると、最も硬くない(軟らかい)豆腐や茶碗(ちゃわん)蒸しをランク1とすると、最も硬い食べ物は大根の糠(ぬか)漬けや切り干し漬けなどが挙げられている。従って大根漬けをしっかりと嚙むと、嚙むエネルギーは高まり、今述べたような効果が十分に期待できる。
ところが今日の日本の子どもや大人たちは嚙むことが非常に少なくなったそうだ。繊維素の塊のような菜漬けや根茎漬けなど漬け物の摂取量が大幅に減ったり、焙(あぶ)ったスルメや皮付きの丸リンゴをかじるような人がほとんどいなくなったためという。
嚙むことの重要さは幼児期にもあるといわれる。上下の乳歯が生えて離乳が始まり、いよいよ嚙む能力を発達させる段階に、よく嚙むことを教えると、その能力を高く学習させることになり、脳・神経系および筋肉の働きと強さが増す。その結果言語学習が容易になり、脳の発達を促すのだそうだ。よく嚙めば歯並びもよくなる。嚙めば嚙むほど顎の力は強くなり、歯茎が発達するからだ。最近は歯並びが悪く、ひどい乱杭歯(らんぐいば)に悩む人が増えているというが、その多くは歯茎の未発達が原因といわれている。生えてくる歯の大きさは先天的にある程度決まっているのに対して、顎(歯茎)の大きさは後天的な要素が多く、嚙まないでいると小さいままに収まってしまう。狭い面積に大きな歯が所狭しと生えてくるので、歯並びが悪くなってしまうというわけである。
よく嚙んでいた昔の人たちは、顎が強く、見るからに逞(たくま)しい面構えをしていた人が多かった。それに対して、今の人は顎がほっそりして野性味がない。しょうゆ顔などといって顎の小さいのが美男、美女だともてはやされているが、早い話が野性味も生命力も豊かでない顔である。昔でいえば殿様顔といって、軟らかいものばかり食べさせられ、弱々しく育てられた人間の顔でもある。
一方、よく嚙んでいる子どもは、頭頚部の筋肉の強さが増し、神経系の働きもよくなる。その結果、言語の学習が容易になり、脳の発達を促すといわれている。
これは大人になっても同様で、よく嚙まない人は筋肉や神経の働きが悪くなるので、病気にかかりやすくなったり、不定愁訴で悩んだりすることになる。とにかく嚙んで嚙んで嚙むことだ。嚙まないと、身体全体が活性化していかない。
だから、日本人のみんなが嚙むことをあまりしなくなったら、だんだんと活力を失ってきて、次第に野性味も、逞しさも、創造力も、生命力も乏しい民族となってしまうかもしれない。