8月も終わりを迎えたこの時季の暑さを本来は残暑と呼ぶが、まだまだ日々真夏並みである。しかし季節は確実に移ろっていて、日暮れも早くなり、そろそろ「二百十日(にひゃくとおか)」である。
秋の実りの無事を祈る風祭りの風習
暦の雑節の一つ「二百十日」は立春から数えて二百十日目の日のことで、新暦では9月1日頃である(今年は8月31日)。
ちょうど稲の開花時にあたり収穫を間近にしたこの時期は、台風が多く発生するため、昔から農家の人々はこの日を厄日として警戒してきた。また、二百十日から十日後の晩稲(おくて)の開花期は「二百二十日(にひゃくはつか)」と呼ばれ、やはり台風による被害に備えてきたという。
「二百十日」が広く知られるようになったのは、江戸時代の貞享暦(じょうきょうれき/1685<貞享2>年より施行)に記載されてから。この暦を作成した暦学者の渋川春海(しぶかわはるみ)は釣り好きで、沖へ船出をしようとした時、漁師に、「長い経験から立春より二百十日目は大暴風雨となる。釣りはやめたほうがよい」と言われた。忠告通りその日は暴風雨となり、この体験から貞享暦に「二百十日」を記したという。
「二百十日」前後には、台風の被害を避けるため、「風祭り(かざまつり)」といわれる秋の実りの無事を祈願する祭りが各地で行われてきた。夜通しの幻想的な踊りで有名な富山県八尾(やつお)町の「おわら風の盆」は、三百十余年続いている風祭りである。
「二百十日」の頃盛り上がる 初さんま便り
この時季に話題となるのが、初競りを迎えたさんまである。記録的な不漁だった昨年より今年はさらに不漁のようで、このまま回復しなければ、さんまは「高級魚」となってしまうだろう。
長く庶民の味方・大衆魚として知られるさんま。意外にも食用としての歴史は浅く、江戸時代になってからのようだ。さんまが文献に登場するのは、『本朝食鑑(ほんちょうしょっかん)』(1697<元禄10>年)とされ、この頃 紀州の熊野灘でさんま漁が始まったという。その当時、さんまは下賤の魚とされ、食べる人は少なく、なんと勿体ないことに、主に灯油の脂を取るための魚だったというのだ。しかし時は下り、ようやくさんまの美味に気付いた人が出てきたようだ。寛政年間(1789~1801)に書かれた『梅翁随筆』には、明和年間(1764~72)までは、さんまを食べる者はほとんどいなかったが、安永元年(1772)に、「安くて長きはさんまなり」と大きく書いた魚屋が現れ、庶民たちが好んで食べるようになったとされている。やがて寛政年間(1789~)には、紀州から房州(千葉県)に伝わった漁法で獲れたさんまが江戸へ送られるようになり、秋口になると、「さんまが出ると按摩(あんま)引っ込む」といわれるほど、脂肪やたんぱく質に富む庶民の健康食となり、富商たちなどにも愛好者が広がり、盛んに賞味されるようになっていったという。
防災の備蓄フードにさんまの缶詰
現代の9月1日は「防災の日」。台風や豪雨、地震など相次ぐ自然災害に備え、長期保存できる非常食品の需要が高まっている。近年では備蓄した食品を日常の生活で消費しつつ買い足し、また備蓄するという「ローリングストック」の方法が浸透してきた。私も長くこの方法で備蓄フードを食べ回しているが、食べものには、災害時の辛い心を癒してくれる力があると思っているので、自分の好きな食べものをストックしている。
缶詰のさんまの蒲焼をごはんにのせた「さんま飯」は私の大好物。初さんまはもう少し様子見となるが、さんまの缶詰は早速ストックしておこう。
歳時記×食文化研究所
北野智子