
保存食が命を救う
さて、ここからは日本の救荒食の話です。過去の日本人は、飢饉がきたときにいったい何を食べていたのか。究極の生き方の参考にしていただきたいと思います。
飢饉というのは、寒冷や干ばつによる凶作、台風や長雨による耕作地の流失といった天候の大きな変化で農作物の生産が激減し、人民が飢えることをいいます。おもな原因は自然災害ですが、戦火や伐採、開墾のような自然破壊といった人災でも飢饉をもたらすこともあります。歴史を見渡すと、世界中の国々では何度も大きな飢饉が起こり、そのたびに国家が滅亡しそうなほど大きな被害が出ています。
そのような危機に備えるために、どの民族でも行ったのが食べものの保存でした。特に穀物の保存は大切で、日本で言えば江戸幕府などの為政者(いせいしゃ)が、率先して穀物の貯蔵を行っています。庶民が自助のために行った保存は、アワやヒエなどの雑穀類と、干した大根の葉や植物のツルでした。海藻も干して保存しましたが、これはカロリーがあるわけではないので、ミネラル源、特に塩分の補給に役立ったと考えられます。
“むしろ”すら食べる飢饉のすさまじさ
その他、ヒシの実、ハスの実など池の中のものも珍重されました。土の中に育つ根茎類は、そのまま救荒食品として扱われたものと考えられます。
それというのも、近世の4大飢饉と称される寛永、享保、天明、天保などの飢饉における極限状況は筆舌に尽くしがたいものでした。温和な日本人が百姓一揆や米蔵・質屋の打ちこわしといった富裕層への反乱を実行し、村々でも年貢を拒否して暴動を起こすほど、 庶民の困窮は極限に達していたのです。飢饉になったときに人々が何でも食べたすさまじい様子を、資料に見ると「いろりの周囲に敷いているむしろには、ふだんの食事のときにこぼした汁などがしみこみ、いくらかの養分や塩分を含んでいるので、それを刻んで野の草などを入れ粥状にしたり、餅状にして食べている。また、トチ、シイ、ナラなどの実のほか、毒性があるのでふだんは食べないソテツの実なども、さまざまな料理法によって口の中に入れた」(平凡社世界大百科事典)というほど極限的なものでした。
小泉武夫