三つの感謝
江戸時代の食育についてお伝えします。
食育のあり方を「食育基本法」という法律で決めなければならなくなったこと自体、おかしな世の中になったものだなと私は感じます。なぜなら、江戸時代にはそれぞれの家の中で、親から子へと食の教育が実践されていたからです。
例えば、こんな話が残されています。食事の時、箸を取ろうとする息子に向かって、父親が言います。
「お前のお膳にある食べ物は、誰から与えられたものだ?食べ物を与えてくれた人に感謝しないなら、箸を持ってはならん」
言われた子どもは、食べ物を与えてくれた親への感謝を学びます。
「お前が今食べているものは何だ?すべて生きていたものだ。その生き物に感謝しないなら、箸を持ってはならん」
子どもは、命をくれた食べ物への感謝を学びます。
「お前が今食べているものをとってきた人は誰だ?その人たちに感謝しないなら、箸を持ってはならん」
子供は、米や野菜をつくる農家の人たちや、魚を捕ってくる漁師たちへの感謝を学びます。
心で食べる
そして、父親はこう諭(さと)します。
「ことほど左様に食べ物は、大切な命の犠牲や、みんなの尊い働きによって目の前に出てきたものなのだ。だから、人様が食べているものを羨ましがったりしてはならない。自分に与えられたものが一番だと思え。その食べ物を一粒でも、一滴でも残すようなら、はじめから決して箸を持ってはならない」
こうしたコミュニケーションによって食べ物への畏敬の念−−わかりやすく言い換えれば、食べ物は口や胃袋で食べるのではなく、「心で食べる」ものであるということを、江戸時代の日本人は子どもに教えていたのです。
ただの精神論じゃないか、という人もいるかもしれません。しかし、栄養バランスだの、カロリー計算だの、ナイフ・フォークの使い方だのを教える食育だけで、「心で食べる」ことの大切さが果たして身につくものでしょうか。食べ物を粗末にしない習慣は、知識ではなく”心”で育まれるものだと私は感じるのです。
小泉武夫
※本記事は小泉センセイのCDブック『民族と食の文化 食べるということ』から抜粋しています。
『民族と食の文化 食べるということ』
価格:6,000円(税抜き)
※現在、特別価格5,500円(税抜き・送料別)で発売中