【小泉武夫・食百珍】粉焼のこと

カテゴリー:食情報 投稿日:2017.04.10

 粉料理の東西くらべ

 お好み焼きはいつ、どこで、だれが始めたのかは明らかではないが、一種の遊戯料理の草分け的存在で面白い。一説によると、江戸後期の雑菓子「麩(ふ)の焼」(春秋の彼岸に仏事用に焼いたもの)に源を持つという。これは、今のお好み焼きのようにさまざまな具を入れて焼くというものではなく、小麦粉を水に溶いて焼き鍋の上に薄く流し、焼けたら片面に味噌を塗ってから巻いた素朴な焼き菓子であった。

 これが明治に入って、鉄板と小麦粉液を備えて思いのまま焼かせたのが「文字焼(もんじやき)」となり、大正時代に入って魚、肉、野菜を具とする今の型が定着したようである。

 当時は、この遊戯的料理がなんとなく不如意に感じとられ、芸妓や一部の芸能人に持てはやされて広まった。だから、この流行の底には、例えば好き合った男女がお好み焼きを焼くという心情が隠微な感覚に通じて、互いに向き合って食べることに、次への行為への暗黙の了解を感じさせたりする点は、なんとなく日本人的風情がある。

 ところで粉料理においては、日本と諸外国とは、その区画線が多くの点で区別されている。お好み焼きを代表例として、てんぷらのかき揚げ、たこ焼きなど、日本のものは、大半が溶いた粉の中に具を混ぜてから焼くのに対し、外国のそれはピザパイ、ギョウザ、パスタ、チャパティなどのように、粉をねってのばしたものに具を包んで食べるものが多い。

 日本人は、主食の米を見てもわかる通りの粒食民族である。だから、日本では、炊くことが主であるため、鍋の発達の方がフライパンのような鉄板の発達よりも進んできた。これと反対に、西欧のような小麦粉中心の粉食民族は、フライパンで焼くのが主で、鍋は従であったから、水分の少ないことを特徴とする包んで食べる料理がそこに発達したのである。人間は、主食によって、その料理法や料理の道具を理にかなったものにつくり上げる知恵を持っている。

 お好み焼きは、遊戯性のある鉄板の粉料理で、適当な水分でボテボテとした中に、日本ならではの味わいを包み込んでいる。

 

 煎餅と霰のちがい

 これに対し、同じく粉を材料にして鉄板や鉄型器の中で焼き、水分を追いだしてパリパリした中に、日本の風味を持たせたのが焼菓子の煎餅(せんべい)である。煎餅が一般に普及したのは、江戸時代・天明年間(1781~89)の、徳川十代将軍家治の時とされる。当時、関東には、瓦(かわら)煎餅、亀甲(かめのこ)煎餅、味噌煎餅、小豆煎餅、卵煎餅などが。また、関西には切煎餅、豆煎餅、半月煎餅、五色煎餅、胡麻煎餅、短冊(たんざく)煎餅、木の葉煎餅など、実にさまざまな煎餅が登場していた。このことをみても、いかに煎餅は日本人好みの食べものであったかがうかがえる。

 日本に煎餅が普及したひとつの要因に、茶との関係がある。茶だけでは口淋しいし、かといって、煎餅だけでは口の中がパサパサしてしまうから、互いをとり合わせるとよく合うことになった。素朴な煎餅の個体の味と、奥行き深い茶の液体の風味とが、まさに、ピッタリと一体化したとり合わせなのである。

 お好み焼きが、好みの材料を入れて焼くのと同じく、煎餅もまた日本の情緒を感じさせる味に仕上げている工夫には感心させられる。醬油や味噌風味、胡麻入りの南部(なんぶ)、のりを散らばしたり巻いた磯辺、山椒(さんしょう)や生姜、菊の花や紫蘇の葉などでの香り煎餅などうれしいものが多い。

 なお、今日一般にいう煎餅は粳米(うるちまい)を原料としたもので、糯米(もちごめ)を主原料としたものは「霰(あられ)」である。あられは原料を精米してから粉とし、これを蒸して成型、乾燥する。それを280℃ぐらいで焼き上げ、醬油で風味付けしてから乾燥し、製品とする。

小泉武夫

 

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編集部
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