2020年6月14日付けの日本経済新聞朝刊全国版に全面2ページにわたって、大きく小泉武夫センセイが紹介されました。各方面からたくさんの反響がありましたので、ここで要旨をお伝え致します。
――“食の味方 発酵仮面参上”と見出しが打たれ、「食べることが我が人生」。福島の造り酒屋に生まれた発酵学者で文筆家の小泉武夫さんは、食文化に関わり続けてきた。野ウサギや山鳥、カエルなど自然の恵みで空腹を満たした子供時代そのままに、沸き立つ心で発酵の魅力を伝える、とあります。
記事は全面2ページにわたり、小泉センセイのいつも変わらぬ爽やかな笑顔の写真とプロフィールから始まり、記事の冒頭から「ピュルピュルとよだれ、甘みがチュルチュル、生唾ゴクリンコ――」。いまや小泉センセイの代名詞となった“小泉造語“にふれ、
――自分が食べているのを想像して、頭のなかにあった表現が自然に文章に溶け込んでいったんです――。
また、フィールドワークや講演などで国内外を精力的に巡り、週に4回は飛行機に乗り、著書は140冊以上。日本経済新聞の夕刊コラム「食あれば 楽あり」(毎週月曜日掲載)は26年間休載なしというギネス級の長寿記録を支えてきたのは、
――夢まで食べ物。75歳を過ぎたが、本当に楽しい。それは食べることしか考えていないからかもしれません――。
――「造り酒屋の末っ子 ニシンで泣きやむ」では、福島県の裕福な造り酒屋に、6人きょうだいの末っ子として生まれた、家族のほか、酒造りの蔵人や配達の人、家事のお手伝いさんもいる大所帯の中、戦後の復興とともにのびのびと育った――。
――明るく活発だった小泉さんも母を亡くしたときはさすがに落ち込んだ。それは小学生4年の時。意気消沈していた小泉さんを元気づけるため、父親は「料理してみろ、」とまな板と包丁、鍋などの台所道具を買い、自分専用の台所まで用意してくれた――
――「仕方なく」が「大正解」、東農大で天職を手に――
1962年、日本で唯一、酒造りが学べる東京農業大学醸造学科(現・醸造科学科)に入学、父親に求められ仕方なく入学したはずが大正解。東農大では顕微鏡が学生1人ひとりに用意され、研究の設備も万全。ここで研究にのめり込みます。熱心に取り組んだ結果、卒業時には首席で学長賞に輝きました。その後とんとん拍子に40歳で教授に就任。異例の若さだったといいます。
その後、研究者として、
――「発酵」を研究テーマに、「食の冒険家」として、国内だけでなく、アジアや中東、アフリカ、欧州、中南米などの世界約40カ国・地域を訪れた。中国の40年物のコイのなれずしやトルコの170年物のチーズなど色々な発酵食品に出合ったが、「非常に危険な味だった」というのがエイを発酵させた韓国の「ホンオフェ」。スウェーデンで生産される塩漬けのニシンの缶詰「シュールストレミング」に次いで世界で2番目に臭いといわれる食品だ。強いアンモニア臭にめまいがし、食べると涙がぽろぽろ。「発酵学を勉強して初めての『催涙性食品』だった。こう名付けたのは私なんですけど」――
しめくくりは、
――「発酵を一途に学び、人に教える。それを含めて私の生きがい。発酵とは英語で『Fermentation』、沸くということ。生む、わくわくするという意味を持つ。人生も発酵。つまり私も毎日が発酵だよ」――
コラムのMy Chargeでは、
小泉センセイの厨房「食魔亭」のメニューから、いままでの一番の大発明が紹介されています。それが以前『小泉武夫食マガジン』にも掲載されている「焼き納豆丼」。「これは本当においしい(作り方は『小泉武夫食マガジン参照)」。
100人中103人がおいしいという味は「最後の晩餐は『焼き納豆丼』と決めているといいます。
さらに行きつけの居酒屋『奈加野』(東京渋谷)のこと、“小泉チルドレン“の東京農業大学で指導した門下生「南部美人」「出羽桜」「八海山」「黒龍」「十四代」など名だたる造り手や発酵の聖地『菌塚』(京都市左京区 曼殊院)についてもふれています。