早春、弥生3月。ポカポカ陽気にはまだ遠いが、春の到来を感じさせてくれるのが白魚。
白魚のおいしい食べ方
白魚は生で、ぽん酢か山葵醤油で食べるのが一番とされるが、白魚の卵とじも旨い。やや甘めの出汁にほろほろに仕上げた玉子と白魚の相性は抜群で、日本酒と一緒に、ご飯にのせてと、いくらでも食べられてしまう。
白魚の軍艦巻きも好物の一つ。この時季、お寿司屋さんに行くと、2回は注文してしまう。すし飯軍艦の上にてんこ盛りになった白魚の姿が、「いざ、出港!」という勇ましさを持っている。
ところで、この「軍艦巻き」というユニークな形態と名前の寿司は、嘉永6年(1853)のペリー来航時に、軍艦の威容を見て腰を抜かした江戸の寿司屋台の親父さんが考案したのだろうと思っていたが、意外にも登場は昭和10年代とか。東京の寿司屋さんが、イクラの寿司を所望した客に応えて創作したのだといわれている。
細かいネタでもシャリ玉の上にのせられて、香り高い海苔も一緒に味わえるし、巻き寿司などの巻きものと違って、一貫単位でいろいろな魚介が楽しめる、一大傑作の寿司だと思う。
白魚と佃島
かつて白魚漁は、江戸は隅田川で盛んに行われていた早春の風物詩だった。安藤広重の有名な『江戸名所百景』の中の「永代橋佃しま」にも、かがり火を灯して白魚を集めている漁船の風景が描かれている。
この白魚、三河にいた頃より徳川家康の好物だったそうで、江戸・佃島でたくさん獲れ、漁民たちは塗りの献上箱に入れて、将軍家へ献上していた。透けて見える白魚の脳が、葵の紋に似ていたことから、「御止魚(おとめうお)」として、みだりに商うことが禁じられていたそう。
佃島の漁民の祖といえば、大阪人である。その由来は、天正10年、明智光秀による本能寺の変の動乱の際、大阪・堺にいた徳川家康が尾張へ無事に戻れるかどうかという時、家康一行が大阪市住吉の神崎川に差しかかった折、佃村の漁民が漁船で脱出を手伝ったという伝承がある。後、江戸城に移った家康が、当時の漁民を江戸へ呼び、鉄砲洲の干拓地を与えて特別に漁を許した。彼らは故郷の佃村にちなんで、「佃島」と名付けたそうな。
技術に優れた漁民は、人口が激増する江戸町民の食を支え、後に保存食として、白魚や小海老ほか雑魚を煮込んだ保存食・佃煮を作り、大いに繁盛したとか。さすが、大阪出身の漁民である。同じ大阪人として大いに拍手を送りたい。
さて早春の使者・白魚を買ったら、まずは葵の御紋を拝んでから食べるとしよう。
白魚や椀の中にも角田川 子規
歳時記×食文化研究所
北野智子