徳川家康は魚好きだった【小泉武夫・食べるということ(42)】

カテゴリー:食情報 投稿日:2018.04.08

片田舎を都に選んだ家康

 日本の首都・東京の発展は、1603年に徳川家康が江戸幕府を開いたことに始まります。それ以前の江戸は武蔵野国(むさしのくに)の一部で、1590年から家康の所領にはなっていましたが、それほど栄えていた土地ではありませんでした。

 そんな、言って見れば片田舎に、なぜ徳川家康は巨大な都を築いたのでしょうか。これには諸説ありますが、食文化論から推測すると、見逃せない事実が浮かび上がってきます。それは、江戸が魚の宝庫だったということです。

 世界各地の大都市を見ると、街の中には必ず大きな川が流れていることがわかります。ニューヨークならハドソン川、パリならセーヌ川、ロンドンならテムズ川。そして東京にも、隅田川、江戸川、荒川、中川、多摩川などが流れています。鉄道や自動車がなかった時代は、船が大量の荷物を運ぶ主要な交通機関でした。大きな川は、都市が発展するための必要条件だったのです。家康が江戸に開府したのも、水運の利便性を重視してのことだったのでしょう。

 しかし、家康はこうも思ったに違いありません。「江戸では美味い魚がいっぱいとれる」と。なにしろ鯛のてんぷらを食べ過ぎて死んだという奇聞が残っているくらいですから、家康の魚好きは筋金入り。もちろん自分が食べるためだけでなく、江戸の海でとれる豊富な水産資源を、新しい都の発展のために生かそうとしたことは間違いのない事実です。

 

佃煮と大名行列の意外な関係

 今でも隅田川の河口近くに「佃島」という地名が残っています。佃煮で有名な場所ですが、佃というのはもともと摂津国(せつのくに・現在の大阪府北西部)にあった漁村の名前。その漁村から、家康が大勢の漁師を連れて来て、新たに住まわせた場所が現在の中央区佃島なのです。

 なぜ、家康はわざわざ大阪から漁師を連れて来たのでしょうか。それは、大量にとれる水産物を加工するためです。関東には醤油の醸造元がいくつもありました。その醤油を使って、魚や貝や昆布などを煮て、保存食をつくらせた。これが、今も私たちが食べている佃煮のはじまりなのです。

 日持ちのする佃煮は、食品であると同時に、江戸を代表する商品になりました。参勤交代で大名のお供として江戸に出てきた諸般の家臣たちは、領地に帰るときに江戸土産の定番として佃煮を買い求めます。なにしろ藩の数は300近くもあり、各藩の殿様が数百人単位の家来を引き連れて1年おきに江戸に来るわけですから、需要はたいへんなものです。佃煮は飛ぶように売れ、売れた分だけお金が市中に出回り、江戸の経済は活性化したのです。

 江戸時代の随筆『蜘蛛の糸巻』によると、天明7(1787)年の江戸は「町数2770余町/市中総人数1285300人」とあります。この人の多さは、当時ヨーロッパで最大の都市だったロンドンをはるかに凌いで、ダントツの世界一。徳川家康は、魚という無尽蔵の資源を駆使して、片田舎を一大都市につくり替えたのです。

小泉武夫

 

※本記事は小泉センセイのCDブック『民族と食の文化 食べるということ』から抜粋しています。

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編集部
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